僕にとっての第二の故郷、アラスカ。そこには、なにもないけれども、僕が求めるすべてがあった。
数百年前からほとんど変わることがない原野が広がり、野性の熊や狼、ムースやカリブーといった野性動物が大地を闊歩して、白頭ワシやミサゴといった鳥類が大空を舞う。なかでもアラスカ北部の北極圏に連なるブルックス山脈は、東西に約1000キロ、南北に約400キロにわたる原生自然帯が残されており、人の住む街や村はおろか、東西を貫く道路が一本あるだけで、登山道さえ存在しない。
山中には風光明媚な山や森林、峡谷が望めるわけではない。ブルックス山脈は、ただただ野性的な北国の原野である。広大無垢な原野にテントを張って、寝て、目を覚まし、食事を食べて移動する。そして、その夜を過ごすためのキャンプ地を探して、一日を終える。そんな単純な日々の繰り返しを一度体験してしまうと忘れられなくなり、過去20年以上にわたって僕の心を鷲掴みにしてきた。
ブルックス山脈を旅するには、そこで生活をする動物たちと同様に僕たち人間も野生の勘を働かせる必要がある。その心掛けを忘れてしまうと、圧倒的な力をもつ大自然から耐えがたい扱いを受けることになる。摂氏30度以上にもなる夏日が夜の11時まで続いたかと思えば、次の日から1週間も雨が続き、気温が低下して真夏の積雪をみることがある。なにもない大河のうえで四方八方から落雷が鳴り響いたり、山火事が巻き起こしたと思われる突風にキャンプ地を襲われたこともあった。
川降りをしていた川が、山火事のなかに迷い込んだり、流木でできたダムのほうへと吸い込まれていってしまい行き場を失いかけたときもある。米国の政府機関が発行する地形図さえも信用してはならない。50年前に発行されて現地調査も終えていない地形図を頼りに歩いていたら、目の前に断崖絶壁が現れて一昼夜の迂回を余儀なくされたり、集落へと通じる地図上の水路がなくなっていたことがある。そのときは友人とカヤック2艇、不用な食糧などを川原に置き去りにして、ひとりで歩いて人家まで助けを求めにいった。
苦しいことばかりでなく、より多くの思い出深い時間を過ごしたブルックス山脈へと赴くときに必ず加える装備がある。そのひとつがウールパワー(Woolpower)のメリノウール・セーター「フルジップジャケット400」である。日常でもつねに肌に直接触れるものはメリノウール製品を選んでいるのだけれども、この一着はアラスカを旅するうえで手放せない。
メリノウールは不快なニオイのもととなるバクテリアの発生を抑えてくれることが知られているけれど、ひと月ほど旅を続けていても異臭を放つことなどなかった。旅を終えて街に戻ってきたときに友人にニオイを嗅いでもらって確かめたことがあるのだが、彼女は「まったく臭わないわよ」と言っていたのだ。
ウールは、化学繊維に比べて焚き火などの火の粉に触れても燃えにくいという利点も備えている。以前はアラスカでも中厚手のフリースジャケットを羽織っていたのだけれど、食事を作るときに焚き火で穴を開けてしまわないように気を使う必要があった。
これを解決してくれたのが、スウェーデン本社を訪れたときに手に入れた難燃処理を施した特別仕様のフルジップジャケット400であった。通常モデルでも化学繊維に比べれば難燃性に優れているけれど、森林火災の現場で働く消防士たちが山火事の熱から体を守るために着ているものなのだから信頼性は折り紙つきだ。
中厚手の生地には、アラスカだからこそ求められる機能も満たしてくれる。短い夏の風物詩として有名な“蚊”の大群から、中厚手のパイルが身を守ってくれるのである。吸血しようと蚊が衣服のうえにとまっていても、パイルの厚みで吸血針が肌まで届かない。そのため蚊に刺されずに過ごせるというわけだ。さらに、多少の雨ならばウールが備える油分によって弾かれるので、フリースジャケットよりもはるかに快適に過ごすことができる。また、天然繊維独特の温度調整機能によって、保温性が必要なときはあたたかく、気温があがったときも熱を逃してくれる。
毎年、春を迎える頃になると、極北の景色が恋しくなって胸騒ぎがはじまる。しかしながら、いまは新型コロナウィルスCOVID-19が引き起こしたパンデミックによって、心のなかに広がる原野を旅することしかできない。アラスカを旅するときと同様に、圧倒的な自然の力に抗わず嵐が過ぎ去るのを待つだけである。きっと、次の夏には心の故郷へと帰ることができるのさ。これも従わざるを得ない自然の摂理なのだろう。
Text & Photographs by Taro Muraishi