匂い、気配、記憶が込められたオブジェ。
北海道から沖縄まで、日本を旅していると、各地で「もの作り作家」と出逢う。
ここで言う「もの作り作家」とは、フランス語で「artisan(アルチザン)」、イタリア語なら「artigiano(アーティジアーノ)」と呼ばれる、「卓越した技術を持つ職人(skilled craft worker)」たちのことだ。
日本各地のアルチザンたち=もの作り作家たちを訪ね、彼らの「もの作りの現場」を取材していこう。彼らが暮らす土地について学び(どうして彼・彼女はその場所を活動の場として選んだのか)、日々の営みを見せてもらおう。どのようにしてその「優れたもの」は生まれているのか、その物語を伝えていこう。
日本各地の街や集落、海辺、山や島にいるアルチザン、もの作りをする人々。木工作家、ガラス作家、染織家、デニム・アーティスト、陶芸家……。彼らに共通しているのは、その土地の「匂い」「気配」「記憶」といったものを大切にしながら、創作活動をしていること。そういう意味では、風土にこだわった酒造りをする杜氏も、その土地に根ざした農業を営む人も、アルチザンである。
槇塚登は、そんな瀬戸内アルチザンのひとりだ。高松生まれ、高松育ちの「鉄作家、Iron Artist(アイアン・アーティスト)」。
東京に暮らす筆者の仕事部屋の窓辺には、槇塚が作った小さな鉄のオブジェがいくつか置かれている。高松港の赤い灯台をモチーフにした置物、女木島と男木島へ行く定期船「めおん2」のブローチ、瀬戸内の空を飛ぶカモメを象った置物。
槇塚の作品からは、瀬戸内海の潮の「匂い」が、島や船の「記憶」が、感じられる。瀬戸内の「気配」が漂ってくるオブジェなのだ。
槇塚登が、UPIアドバイザー寒川一とともに生み出した「TAKIBISM(タキビズム)」のプロダクツもまた、匂い、気配、記憶を内包している。火と煙の匂い、森や荒野の気配、旅と野営の記憶が、使う前から込められている。
夏の朝、高松に槇塚登を訪ね、焚火台「JIKABI(ジカビ)」と、火吹き棒「BREATH TO FIRE(ブレストゥファイア)」について、話を聞いた。槇塚のアトリエは、海のように青い湖を望むオリーブ農園の一角にあり、すぐ裏は小さな祠のある森だった。水が流れ、ウシガエルの鳴き声が響く。槇塚は、幼い頃の「鉄との出逢い」から語り始めた。
鉄工所で働く、ということ。
「小さい頃から、機械の音、鉄を打つ音がいつもそばにありました。家が鉄工所を営んでいて、工員たちが日々、何かを作っていた。朝から夕方まで音が絶えることはなかった。溶接の火と熱で工場の中はとても熱く、みんな汗を流しながら作業していた。大きな鉄を切る機械もあったし、火花が散っていた。小さな自分にとって、鉄工所は危ない、怖い場所だった。
高校卒業後に就職したのは、地元にある映像制作会社で、テレビ制作の下請けをやるのかなと思っていたら、自分の仕事は、四国にある競輪場での撮影や、機材の整備だった。撮影は面白かったけれど、結局3年ほどで辞めた。違う方向に行きたいなと思ったから。
結局、半年くらいプー太郎。時間が経てば経つほど、自分が何をしたいのかどんどんわからなくなる。夏の間は海に行って素潜りしてアワビを採って、漁師になろうかなと思ったりもした。
ある日、兄貴が弁当を食べながら、アルバイトでもせんか?って言ってきた。兄貴は父親の鉄工所で働き出して2年くらいで、工場の下っ端だった。アルバイトならいいかと思って、とりあえず翌日から働き始めた。
熱いし、重いし、しんどかったけれど、溶接がうまくできると褒められて、作業自体は嫌いじゃなかった。工場の先輩たちの飴と鞭の使い分けが絶妙でね(笑)。一ヶ月ほど経つと先輩から、もうオマエも正社員でええやろ、って言われて、それが22歳のとき。それからずっと鉄工所で働いてきた」
鉄作家の誕生。
「ずっと絵を描くのが好きで、20歳くらいのときには、市内の絵画教室にも通っていた。高校に入るときには美術科に行きたかった。ところが僕は色弱で、色の区別が不得意だったから、担任教師から、お前は(美術科には)行けないぞと言われた。そんなわけで、大人になってから通った絵画教室で、絵の基本的なことは教わって、あとは全部独学。
あるとき槙塚鉄工所(実家)の経営状態が悪くなり、とうとう会社を閉じようかという話になった。でも僕はこの仕事を続けたかった。道具も機械もあって、場所があって、自分には何でも作れる自信があった。結局、工場に残ったのは僕と兄貴の二人だけ。しばらくはろくな仕事がなかった。
先輩がいなくなり、空いた時間を自由に使えるようになったので、鉄くずから小物を作り始めた。一輪挿し、花を象ったお香立てとか。流木を拾ってきて、鉄と組み合わせて椅子を作ってみた。先輩がいるときにやっていたら怒られたことも、もう自由にやれて、めちゃくちゃ楽しかった。
そのうち、できたものを、知り合いのカフェのようなところで展示してもらったり、フリーマーケットに出してみたりしたけれど、まったく金にはならない。心のどこかで、個展とかやりたいな、と思っていた」
ストーリーのあるアート。
「転機のひとつは、34くらいのとき。地場産業の活性化を意図したJAPANブランド育成支援事業の一環として、香川県高松商工会議所から、あるプロジェクトが立ち上がり、槙塚鉄工所も参加することになった。建築家の中村好文さん、木工作家の三谷龍二さんとか、9人の名のあるクリエイターが高松にやって来て、地元の職人や工房と組んで、それぞれひとつ作品を作り上げ、それを商品化する、という企画だった。アーティストと、地場産業のマッチング・プロジェクト。
僕が組んだのが、造形アーティストの前川秀樹さん。前川さんが持ってきたアイディアが斬新で面白くて。前川さんの考えは自分にはないもので、刺激を受けた。彼はまず、自分が作るモノの背景をきちんと考え、ストーリーを用意し、緻密に練り上げていった。そういったことを、僕は前川さんとの作業で学ばせてもらったと思う。スケジュールは急でとんでもなかったけれど、その時間は自分にとって良いワークショップになった。もの作りってこういうことなのかと、わかり始めるきっかけになった。
僕はずっとジャンクアートが好きだったけど、それまでは好き勝手に、自分の自由にやるのがアートだと考えていた。東京からプロのクリエイターたちがやって来て、彼らの言動を間近にしていたら、その洗練、こだわり、佇まいや設えの美しさに感銘を受けた。
それまで僕は、かっこよければいい、面白ければいい、みたいに勘違いしていた。実は、物語、ストーリーが大切なんだってわかった」
語り出した鉄のオブジェ。
鉄作家・槇塚登は、饒舌な男ではない。寡黙ということはないが、その心に込められた想い、真意のようなものを、カジュアルな言葉に気軽に変換する類いのアーティストではない。(と筆者は思っている)
だが、彼が造形したオブジェ、鉄の作品たちは、実に多くのことをこちらに語りかけてくる。槇塚が作り上げたオブジェには、面白いストーリーがあるのだ。筆者は、ひと目見た瞬間にその物語を感じ、たまらなく好きになり、その場でいくつか買い込んでしまった。それが槇塚と初めて会ったときで、かれこれ4〜5年前のことだ。
たとえば灯台のブローチ。高松の灯台、小豆島の灯台、(神奈川県)三浦半島の灯台など、シリーズでいくつかあり、手に取った瞬間、筆者は、槇塚がそれぞれの灯台へ行ったときのことを想像してわくわくしてしまった。槇塚はこう語る。
「小豆島のギャラリーと仕事をすることになり、とりあえず島の灯台を見に行くことにしたんです。有名な灯台、知られていない灯台、いろいろあったけれど、そこに至る道のりが面白かった。そうだ、ブローチにしてみようと思った。それぞれ箱に入れて、灯台の情報も少しつけてマニアックな感じにする。鉄はエイジング加工して、古くサビの入った本物の灯台のような質感をもたして。それが、灯台シリーズの始まりだった」
筆者は、鉄の灯台ブローチから、彼が実際に歩いた道のりや、見た風景を、そのときの匂いや気配を、感じ取った。槇塚が手がけた灯台のオブジェ、カモメのオブジェも、同じだった。つまり筆者は、金を払い、鉄のオブジェに閉じ込められた「島の記憶」を買ったのだ。
BREATH TO FIREとJIKABIの誕生。
「寒川さんが初めてスウェーデンに行くとき、焚火で使う火吹き棒を作って欲しいってたのまれたんです。そのとき使っていた焚火台と一緒の袋に入るよう、一本の長い棒ではなく、半分くらいに分割してしまえるタイプのものが欲しいと。まずは言われた通りに試作品を作ってみたのだけれど、これがなかなか難しい。今、TAKIBISM『BREATH TO FIRE』と命名された火吹き棒は、機械加工でうまく作られているけれど、当初は僕が万力を使って、自分の手だけで加工していたから、なかなか思うようにできなかった」
早くも名作となったTAKIBISM 『BREATH TO FIRE』 の、槇塚が手がけた初期のプロトタイプが、UPI表参道に展示されている(店舗スタッフは、その誕生秘話を詳しく話してくれる)。
そのようにして火吹き棒の製作を槇塚にたのんだ寒川一だったが、焚火台を依頼するまでには時間を要した。というのも、世には様々な種類の焚火台がすでにあり、アウトドア・ブームの流れから、「焚火台ブーム」が起きていたからだ。槇塚がこう述懐する。
「いろんなメーカーが焚火台を出していたから、寒川さんはまず、自分自身が焚火台を作る意味を見つける必要があったんだと思う。ある日、寒川さんから焚火台のラフスケッチが送られてきた。麦わら帽子をひっくり返したようなデザイン画だった。これまで見たことのない焚火台で、そのコンセプトはすべて寒川さんの頭の中にあったから、まず僕はそのスケッチ通りに作ってみた」
槇塚は鉄のアーティストだが、鉄の職人でもある。人が確固たるアイディアを持つときには、純粋にそれに従い作り上げるプロの職人となる。そこで、まずは寒川一が思い描いた通りに作ってみた。だが作ってみると、重く、持ちづらく、加工がとても困難だった。
「作るのも難しかったけれど、使いづらいだろうと思った。寒川さんとは何度かやり取りして、お互いに試行錯誤した。あるとき試しに、寒川さんの初期デザインに、僕が考えたアイディアを盛り込んだものを作って見せてみた。すると寒川さんが、これはいい、ということになり、そこから僕なりに考え抜いていって、現在のデザインになった。持ち運びしやすく、焚火の周りに物を置けるようになっていて、一番外のフレームは(炎が燃えていても)手で握ることができる」
さらに試行錯誤があったが、やがてTAKIBISM REAL FIRESTAND『JIKABI』Lが誕生した。ほどなくしてSサイズが完成し、この7月には待望のMサイズが発売になる。BREATH TO FIREと並び、JIKABIもまた、すでにアウトドア・プロダクツにおける「名作」であり、今後もずっと「究極の道具」として広く愛用されていくことだろう。
鉄と共に生きる。
瀬戸内には様々なもの作り、手工芸がある。瀬戸内海エリアは、アルチザンたちが息づく海域だ。その中で、アルチザン槇塚登にとって、「鉄」とは、どのような素材、存在なのか。
「父親が始めた鉄工所でアルバイトを始めた頃は、メチャクチャしんどい仕事で、なんでみんな、こんなしんどいことをやるんだろう?って思いました。でも、火で叩いて形を変えたり、溶接してくっつけたり、自分のイメージした姿に近づいていくとき、嬉しさや楽しさがあった。基本はしんどい世界。僕は、その世界の中で一生を終えるのだろうなと思っていた。そして、それで一生を終えられるなら、鉄の職人としてとことん極めて生きていけたら、それで本望だとも思っていたんです」
今、筆者の目の前に、鉄作家・槇塚登が昔に作った灯台の置物がある。これを見るだけで、瀬戸内の海や島々が鮮やかに思い出される。いつかの旅を想起し、ふと笑顔になり、心穏やかにさえなる。槇塚の小さなオブジェが、そうさせるのだ。槇塚登の鉄の造形物には、ハートがある。
Photography by MICHINORI AOKI Interview & Text by EIICHI IMAI