スウェーデンとノルウェー、フィンランドの国境を延びる北極圏トレイル(ノルドカロット・レーデン)を歩いていたときのことだ。
約200kmの無人地帯を12日分の食料を背負って道なき道を歩くのだが、食料は最小限に切り詰めているので、いつもお腹と背中がくっつきそうなほどの空腹感を抱えていた。
ある日の午後、赤い実が足元一面に広がった。スウェーデン語でユットロン、英語でクラウドベリーというキイチゴだ。地比類でふわふわのツンドラに膝をついて、ひと粒口の中へ。尖った酸っぱさのあとから、野性味溢れる甘みがジュワッと口に広がり喉を潤す。「うまい!」
ユットロンやブルーベリーなどツンドラの果実は、常時空腹のハイカーにとって大切なビタミン源であると同時に、歩く楽しみそのものであった。
しばらくすると、4輪バギーに乗ったおばさんが四つん這いのぼくに向かってやってきた。無意識に身構える。「ここはわたしの土地よ」と叱られると思ったのだ。
しかし、おばさんはぼくから200mほど距離を置いたところにバギーを止めると、ぼくに向かって「ヘイッ!(こんにちは)」と手を上げ、ユットロンをカゴに収穫しはじめた。
2008年8月、このラップランド歩き旅で、僕は北欧の自然享受権に触れ、意識するようになった。
自然享受権(スウェーデン語:Allemansratten/アッレマンスレッテン)とは、土地の所有者に損害を与えることなく植物や動物に敬意を払って行動する限り、すべての人にあらゆる土地への立ち入りや自然環境の享受を認めるという個人に与えられた権利である。
北欧諸国に古くからある慣習法で、たとえば、以下のような権利が認められている。
・通行権(徒歩、スキー、自転車によって通行する権利)
・滞在権(テントなどを用いて短期滞在する権利)
・果実採取権(野性の果実やキノコを採取できる権利)
・自然環境利用権(カヌー、ボート等の水面使用、魚釣りなどをする権利)
スウェーデン環境保護庁のホームページを覗いてみると、具体的な注意事項が書かれている。たとえば、キャンプについてはこんな感じだ。
「(すべての国民と旅行者は)自然の中で数日間キャンプをすることができます。 地主に迷惑をかけたり、自然を傷つけたりしないように注意してください。」
「牧草地、農地、植林地ではなく、硬い地面にテントを張ることを選択してください。テントの場所は住居の近くであってはなりません。」
「キャンプをする場合、1日テント3張りは、自然享受権の一部です。一方、テントの多い大規模なグループでキャンプをする場合は、土地所有者に許可を求める必要があります。なぜなら、地面の損傷や衛生上のリスクが大きくなるからです。」
日本では、原則的に指定された場所以外ではテントで寝泊りすることは許されない。
テントを張るには土地の所有者の許可が必要で、河川敷や山林などの国有地で寝ていると通報されて警察沙汰になる。登山道を歩いて山に入っても、自然環境保護を理由にキャンプ指定地以外で寝ることは御法度だ。そんな窮屈な日本で育ったアウトドア好き(ぼくのことですね)が北欧を訪れると、「なんて自由な国なんだ!」と感激して、何度も足を運ぶことになるのである。
われわれツーリストにも与えられた嬉しい権利である。
しかしながら、北欧の地を踏むたびに、諸手を挙げて喜べるものではないと思うようになってきた。
その理由は2つある。
もともとスカンジナビア半島北部は、先住民サーメ人がトナカイの放牧や狩猟採集で暮らす土地であった。果実やキノコを収穫して暮らしてきた先住民の土地へぼくみたいなフラッとやってきた旅行者が自由に出入りできて、自由に収穫していいとなると、先住民のみなさんの心は穏やかではないはずだ。先住民を軽視したルールと言わないまでも、あまりにも野放しすぎやしないか? と旅行者として思うところがある。
ぼくはいま新潟の過疎化が進む山村に住んでいる。雪が解け、木々が芽吹きはじめると、どこもかしこも山菜天国だ。村人はその山菜を収穫し、冬の食料として保存し、民宿の目玉食材として活用している。それは4mもの雪が積もる厳しい豪雪地に生きる人々の特権だ。だから村のあちこちに「山菜は村の財産です。山菜は採らないでください」という張り紙が貼られる。
その山菜を採集する権利が全人類に与えられたら、村人はどう思うだろう。人口密度や自然環境、生活習慣の違いもあるゆえ、一概に北欧と日本を比べることはナンセンスであることを承知しても、何百年も前からこの地で生活してきた先住民のことを思うと、自然享受権は首をかしげたくなるルールなのである。
ツーリストとして自然享受権を喜べないもうひとつの理由は、日照時間が短く、脆弱な土地に根付く北欧の自然は、回復力が乏しいということだ。日照時間が長く、温暖湿潤で生命力溢れる日本の自然とは訳が違う。
テントのフロアの形にぺちゃんこに押しつぶされたツンドラの蘚類や地被類を何度も見てきた。人里に近く、水が横を流れ、風を避けられる平らなキャンプ適地は、幾人ものハイカーの背中に潰されて、地面が露出していた。回復力の乏しい自然を守るためには、やはりある程度の行動規制が必要なのではないか?と北欧の自然を愛する旅行者はそう思わざるを得ないのだ。
この2つの理由から、自然享受権を心から受け入れられない自分がいる。
しかし、こうも思うのだ。
北欧の人々は、自然に触れることを積極的に選んだのだと。
大なり小なり先住民の生活を脅かし、貴重な自然を失うリスクは生じるけれど、人が自然に触れることは、長い目で見たら人の手によって北欧の自然環境を保護することに繋がる。
幼少期から身近な自然に触れることで、自然の大切さを理解し、大事にしようという意識が芽生える。
そこを大事にしようと、北欧諸国の人々は考えたのだ。
人間は、ルールの押し付けなくして自由を与えられると、これはやっちゃいけないことだと自分の頭で考えて、行動するようになる。
事実、北欧の北極圏へ何度も足繁く通ったぼくが「自然享受権って、おかしいんじゃない?」とここで問題提起している。あの人の生活を大事にしたい。あの風景を後世へ残したい。そう心から思うからだ。
これこそが、自然享受権の本意なのではないかと、北欧から離れたいま強く思うのである。
つまり、自然享受権は、超積極的な自然保護思想なのだ。
TEXT & PHOTOGRAPHY BY SHINYA MORIYAMA