旅と自転車と焚火カフェ。

 鎌倉在住の知人女性から「焚火カフェ」のことを教えられたのは、15年ほど前のことだ。彼女からのメールにはこう書かれていた。「三浦半島に、海辺で焚火を熾し、おいしいコーヒーを淹れてくれる人がいる」。さらに、「希望があれば別の場所でもやってもらえる。たとえば誰かの家の庭とかでも。焚火カフェの道具を持って彼が指定の日時に来る」。

 筆者は、控えめに言っても「猛烈に」興味をひかれ、彼女に電話をかけてさらに詳しく訊ねた。「もし北海道の人から焚火カフェの依頼が届いたら、その人は北海道まで道具を持って行くのかな?」

 「たぶん、交通費とか、経費の相談は別途必要だろうけど、そこがクリアになれば、たとえ礼文島でも、加計呂麻島でも、やってくれると思うよ。彼は、そういう人だから」と彼女は言った。

 そういう人、なのだ。

 この人に、絶対会いに行かなければならない。筆者は直感的にそう思い、焚火カフェを主宰する男が営む「3 knot(サンノット)」という場所(そこがどのような場所であるかも、そのときはまったく知らない)のホームページにアクセスし、わかりづらいそのサイト内の「info.」から「contact」を探り当てて、メールを送った。ほどなく返事が届き、電話で本人と話した。

 「秋谷(あきや)で会いましょう」と電話の向こうで彼は言った。「わかりました」と即答したが、実はそのとき筆者は秋谷という場所を知らなかった(隣の葉山や、三崎は知っていたが)。それで、「そうか、(どこかの)空き家の庭で焚火をやるのかな」と思ったのだ。

 そのようにして筆者は、人生初の焚火カフェを体験した。 

(少々)脚色しているかもしれないが、これが筆者と、焚火カフェの主、寒川一さんとの出逢いである。

 当時、寒川さんは、折りたたみ式焚火台を愛用していた(見事に使い込まれていた)。日本では、広く直火での焚火が禁止されているから、寒川さんは焚火台を使っていたわけだが、それだけが理由ではない。寒川さんには、「ゴミなど一切残していきたくない」という信念があったから、焚火台を使用するのは当然だった。飛ぶ鳥跡を濁さず。もちろんそれは焚火に限ることではない。夏のビーチ、冬の雪山、キャンプ、川辺でのバーベキュー、本来どこでも誰でもそうあるべきだ。

 かつて、寒川さんが浜辺で焚火をやっていると警察官がやって来て、「お兄さん、ここはバーベキュー禁止だよ」と言われたことがあるそうだ。寒川さんはクールにこう応えたという、「BBQじゃない、これは焚火」。

 先日、撮影のためだったが数年ぶりに寒川さんの焚火カフェを体験し(この記事の前編参照)、そのときに筆者は、いろんなことを鮮やかに思い出し、いくつかのことをすっかり忘れていることに気づかされた。

 鎌倉の寒川さんの自宅を訪ね、久しぶりに膝をつき合わせて話を聞くことにした。レンメルコーヒーを飲みながら、寒川さんは、「最初の旅の思い出」、「焚火のはじまり」について、語ってくれた。

14歳、四国一周、ランドナー。

 僕は、自転車が大好きな子供でした。今も変わらず好きですけれど。だから、「最初の旅は?」と問われれば、それは14歳のときの自転車の旅。自分にとって「目覚めの時」です。

 中学生の僕は、「ランドナー」という自転車に乗っていました。ドロップハンドルで、前後にたっぷり荷物を搭載できるようになっている。ハンドルの間に四角いバッグをひとつ、前輪の両側にサイドバッグ、後輪の左右にもバッグを取り付けられる。もちろん荷台の上もある。タイヤが少し太いランドナーは、「旅の自転車」なんです。

 その自転車で2週間、旅したんです。家のある香川県の丸亀を出て、まず愛媛の方に向かって走り出しました。四国の地図を上から見て、左回りにぐるっと一周する旅。

 夏休みの朝、午前3時くらいに家を出発しました。

 10日間の予定で出発。家を出てわりとすぐ、「家に帰りたい」と強く思っている自分がいた。初日はずっと、「今なら家に帰れる」と思い続けながら、のろのろ走っていた。ずっと後ろ向きに走っているような感じだった。家に帰れば母親がメシを作ってくれるし、温かい布団がある。「俺はなぜ、こんな面倒な思いをして、ペダルを漕いで、家から離れていくんだろう?」

 ところが、(愛媛県)松山を過ぎた辺りで、気持ちが吹っ切れた。

 それまで後ろ髪を引かれながらペダルを踏んでいたけれど、松山を過ぎて少し経った頃、「身体ができる」という感覚があった。

 もう停まりたくない、ずっとペダルを踏み車輪を回し続けていたい、という気持ちが湧き起こった。肉体はロードと一体化したようになり、走っているのが超心地いい。永遠にペダルを漕ぎ続けられるようにさえ思えた。

 宇和島へ降りていく辺りから、景色ががらっと変わって別世界になった。同じ四国とは思えない。異文化の風景というか。海の色が違う。見たことのないブルー。宇和島の辺りは珊瑚礁もあり、とにかく海が美しい。

 海辺のキャンプ場には、水道と古いトイレがひとつあった。そこには「主」がいた。先にテントをはっていた先住民が(笑)、「まず主に挨拶に行きなさい」と子供の僕にルールを教えてくれた。その主に、「潜れば魚はとれるから」と言われて、翌日銛を借りて海に入ると、コーラルブルーの中に魚がたくさんいて、いくらでもとれた。そのキャンプ場に3泊したけれど、あまりに心地いいので、そのままずっと居続けたいくらいだった。

 四万十川の河口まで降り、高知ではよさこい祭り、徳島に入ったら阿波踊りをやっていた。ユースホステルに泊まり、そこで出逢った大学生たちと仲良くなり、一緒に踊りに行ったりした。

 この頃にはもう、「家に帰りたくない」と思っている自分がいた。10日間の予定だった四国一周の自転車旅は、結局14日間に伸びるんだけれど、その延長された4日間は「抵抗」だった。あんなに家を恋しく思っていた少年はどこかへ行ってしまい、今度は家に戻ることを拒んでいる少年がいた。まだ帰らない、帰りたくない、このまま旅していたい、という「抵抗の4日間」。

 家のある丸亀まで、残り100kmのところまで来た。両目に、知っている風景が飛び込んできた。香川県、故郷の土地。瞬間、自分の中で別のスイッチが入った。「一刻も早く家に帰りたい!」

 そこからはもう、猛スピードで走って、家に帰った。

バハ・カリフォルニア、無人島の焚火。

 のんびりカヤックを漕いでいるときのスピードが、だいたい「3 knot(サンノット)」。

 40歳になった頃、秋谷の、久留和海岸のそばにあった中古の一軒家を買い、その1階で小さなアウトドア・ショップを開きました。それが「3 knot」です。店のコンセプトは「サヴォリ(SAVORI)」。海と山に囲まれた三浦半島にある、「さぼるための場所」、「さぼるための何かを提案、提供する店」。結局その店は、5年ほどで閉じることになるんですが。

 僕にとってサヴォリとは「非日常」であり、静と動の「静」。通勤列車に乗り会社で働く「動」が「日常」だから、時にそれを「さぼりませんか」という誘いです。見事さぼって来てくれた人をもてなすのが、焚火であり、ハンモック、裏山に行く、(カヤックで)無人島に行って釜揚げしらすご飯を食べる、ビーチサンダルで歩く、といった「遊び」でした。この遊びや、非日常への「誘い=ガイド」が、僕がやりたいと思ったことで、そのきっかけは夫婦でのバハ・カリフォルニアへの旅でした。

 かれこれ30年ほど前、僕らはハネムーンでバハ・カリフォルニアへ行った。

 夏の間、カナダやアラスカの沖合で過ごしているザトウクジラやコククジラは、冬になると温暖な海で出産、子育てをするために、ハワイ諸島沖合や、バハ・カリフォルニアの海に移動する。僕らは、そんなクジラたちにアクセスしながら無人島で野営して過ごすという海外ツアーに参加した。

 当時、海外のアウトドア・ツアーに参加する日本人は少数派だった。そもそも、30年前の日本のアウトドアというのは、もう別モノというか。知識もスキルもなかった時代で、道具も不足していたし、きちんとガイドできる人はいなかった。

 アメリカのアウトドア・ツアーは当時から洗練されていて、すべて的を射ていた。

 そのとき、20代の参加者は僕らだけで、あとは総じて欧米のリタイアした人ばかり。「若いのに、あんたたち、こんなところで何をしているの?」と笑われたけれど、結果的にその旅は、僕にとって、人生を変えるような大きな体験になった。

 バハ・カリフォルニアへのツアーの2週間のうち、1週間は、マグダレナ湾にある無人島へカヤックで渡り、テントで過ごすというものだった。夫婦でダブル・カヤックを漕いで島に着くと、メキシコ人スタッフが何人かいて、テントも用意してあるし、食事もすべて彼らが作ってもてなしてくれる。オーガニックの石けんを渡され、それを使って海で身体を洗った。

 このとき僕は、ダッチオーブンという道具を初めて見た。メキシコ人たちはダッチオーブンで肉料理、豆料理、デザートまですべて見事に料理していた。メキシコのビール、カリフォルニア・ワイン、ソフトドリンク、そしてもちろんテキーラ、なんでもそろっていた。

 砂浜では大きな焚火が燃えていた。炎がやがて小さくなり、熾火になると、熱い砂の中にアルミホイルで包んだケーキを埋めて蒸し焼きにして、それをコーヒーと一緒に出してくれた。シェフがギターを弾いて歌った。

 すべてが見事にセットされているんだけど、適度にゆるくて、ちょうどいい。キャンプやアウトドアの、こういった楽しみ方、セッティング、歓びというのは、初体験で、驚きながらも、「こういう感じ、日本でやれないのかな」と考えている自分がいた。

 島での娯楽は、目の前の海であり、広い空、沖合にジャンプするクジラ、海鳥の声、夕陽。

 日々、海で遊び、用意してくれたうまいメキシコ料理をたらふく食べ、セルベッサ(ビール)を水代わりに飲み、下手くそな英語とスペイン語で会話する、ただそれだけなんだけど、最高に満ち足りている。

 この最高の娯楽の中心にあったのが、焚火。

 彼らは乾いた流木を集めてくると地面に穴を掘り、そこに木を放り込んで火を点けた。

 これが焚火か、と思った。焚火っていいなぁって。

 人生の中で、あんなすごい星空を見たのは、このときが最初で最後。無人島で人工の光がまったくないから、焚火が消えると真っ暗闇で、それはもう驚くほどの星の数。水平線から星だらけ。あまりに星がたくさん瞬いているから、圧迫感さえあった。

 星空の下、「日本で俺は何をしていたんだろう?」と思った。「世界には、こんなにも素敵なことがあるんだ」。

 僕は衝撃を受けていた。そして、「アウトドア・サービスって何だろう?」と深く考えることになった。後に僕が三浦半島で始めたことの原点が、このバハ・カリフォルニアの旅にはある。

 焚火カフェ、ハンモック・ハンティング、無人島にカヤックで渡ってしらすご飯……。すべて、バハ・カリフォルニアでの体験があったから生まれた。あのときの体験が、僕にそれらをさせた。

 あの甘美な思いを、僕は再現したいと強く思ったんです。焚火カフェで、夕陽が落ちきる寸前にコーヒーを提供するということも、バハでの体験が僕にそうさせている。

 光と影、煙の匂い、揺れ動く炎、一日の変化と人の気持ちの移り変わり……。そういったことのそばにいるのが良きガイドであると僕は思っています。

 バハへの旅は大きかった。自分の中の「アウトドア観」があのとき定まったと言えると思います。今、流木を集めて焚火を熾すことにこだわるのも、バハの男たちがそうしていたからです。

 海辺、夕陽、あとは、その日の分の流木とコーヒーがあれば、僕はそれでいい。

Photography by MICHINORI AOKI
Interview & Text by EIICHI IMAI

寒川 一(さんがわ・はじめ)
寒川 一(さんがわ・はじめ)

1963年生まれ、香川県出身。アウトドアライフアドバイザー。UPIアドバイザー。アウトドアでのガイド・指導はもちろん、メーカーのアドバイザー活動や、テレビ・ラジオ・雑誌といったメディア出演など、幅広く活躍中。とくに北欧のアウトドアカルチャーに詳しい。東日本大震災や自身の避難経験を経て、災害時に役立つキャンプ道具の使い方・スキルを教える活動を積極的に行っている。